文永の役、そして弘安の役によって鎌倉幕府の財政は苦しくなりました。 1297年に永仁の徳政令を出しても御家人の借金帳消しを試みましたが、解決には至りませんでした。 そして鎌倉幕府と御家人の信頼関係は崩れていったのです。 鎌倉幕府の衰えを好機とみた後醍醐天皇は、天皇中心の政治を取り戻そうと考えました。 そして1333年に足利尊氏、楠正成、新田義貞と共に鎌倉幕府を攻めました。 その結果、鎌倉幕府は滅びてしまいました。