明智光秀(あけちみつひで)は、戦国時代を代表する武将の一人です。織田信長にその才能を見出され、足利義昭との橋渡し役を務めるなど、外交や軍事で大活躍しました。信長の家臣団の中でもトップクラスの出世を遂げ、「惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)」を名乗りました。
光秀はただ戦いに強いだけでなく、鉄砲の扱いに長け、和歌や茶の湯も嗜む非常に教養豊かな人物でした。また、丹波(現在の京都府・兵庫県の一部)を平定した後は、福知山城を築き、善政を敷いたため、領民からは今でも「名君」として慕われています。
しかし、1582年、突如として京都の本能寺にいた信長を急襲します(本能寺の変)。「敵は本能寺にあり」という言葉とともに信長を自害に追い込みましたが、直後の山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れました。
わずか十数日間の天下であったことから「三日天下(みっかてんか)」とも呼ばれますが、彼が信長を討った動機については、「怨恨説」や「野望説」のほか、「朝廷・幕府を守るための義憤説」など、今なお多くの謎に包まれています。