1592年(文禄の役)から始まった朝鮮出兵は、一時休戦となりますが、講和交渉が決裂。1597年、豊臣秀吉は再び朝鮮へ大軍を送り込みました。これを 慶長(けいちょう)の役 と呼びます。
この二度目の戦いでは、日本軍は朝鮮南部を確保することに重点を置きましたが、朝鮮水軍や明の援軍に阻まれ、戦況は停滞しました。
戦乱の最中である1598年、秀吉が伏見城で病死したことにより、日本軍は一斉に撤退を開始。足掛け7年に及ぶ朝鮮出兵は幕を閉じました。
秀吉の死とこの戦争の失敗は、豊臣政権を支えていた武将たちの対立(文治派と武断派の溝)を深めることとなり、のちの 「関ヶ原の戦い」 への大きな伏線となりました。