1274年の文永の役(ぶんえいのえき)から7年後の 1281年、元は14万人の大軍で再び日本へ攻め込んできました。これを 弘安の役(こうあんのえき) といいます。
前回の戦いで元軍の戦法を知った 北条時宗(ほうじょうときむね) は、博多湾の沿岸に 防塁(ぼうるい) と呼ばれる約20kmに及ぶ石垣(いしがき)を築き、徹底した防衛体制を整えていました。
この防塁によって元軍は思うように上陸できず、海上からの攻撃を余儀なくされました。日本軍が優勢に戦いを進める中、大規模な 暴風雨(ぼうふうう) が発生し、元軍の船の多くが沈没。ついに元軍は退却へと追い込まれました。
二度にわたる元軍の襲来「 元寇(げんこう) 」を防ぎきった日本でしたが、この戦いの後に恩賞(おんしょう)をめぐる問題が発生し、鎌倉幕府は急速に衰退していくことになります。